永井隆に愛と平和を考える - サンパウロ

サンパウロ 永井隆に愛と平和を考える

Add: wybuwa69 - Date: 2020-11-20 15:31:06 - Views: 7902 - Clicks: 7384

この子を残して(1948年4月) 6. ナガイ タカシ ニ アイ ト ヘイワ オ カンガエル : 1994ネンド カダイ トショ カンソウブン コンク-ル. 『永井隆全集III』サンパウロ年・いとし子よ・ロザリオの鎖・亡びぬものを・新しき朝・村医・乙女峠・永井隆年譜要旨以上が収録されています。『いとし子よ』という作品では、永井隆は子どもたちに対して書いたものです。子どもたちは、永井隆さんの子どもさんに対して、「ばんぞ. 中古本を買うならブックオフオンラインヤフオク!店。まとめ買いで更にお得に!! タイトル 愛の歌・平和の歌 永井隆の生涯 作者 李文煕 販売会社 サンパウロ/ 発売年月日 /08/ご入札する前にご確認いただきたいこと (年 11月 19日 14時 36分. 村医(1978年4月) 12. ロザリオの鎖(1948年3月) 5. 雲南市民は、「如己愛人」の精神で我が身を顧みず人々のために尽くし、また、重症の床から世界に向けて「平和を」訴え続けた博士を誇りに思い、そして博士の精神を学ぼうとしています。 雲南市は年11月に、「平和を」の都市宣言を行い、世界平和実現に努力することを誓いました。 1970年に建設された永井隆記念館は、建設から約50年が経過し、施設・整備等の老朽化が進行してきました。また顕彰室をはじめとする施設や駐車場はその狭隘さに加えて、今の時代にそぐわない設備環境となってきました。そのため地域住民からの2度の要望書の提出を受け、新たな記念館を整備することになりました。 新しい記念館は、博士の信念や人柄を感じてもらうため、愛につつまれたあたたかみのある空間をイメージしています。 博士の描かれた絵や、書、ふるさとの人へあてた手紙など、博士を身近に感じてもらえるような展示をめざします。 また、建物の外には、被爆当時、長崎の人々の心の支えとなった「長崎の鐘」をイメージした、「平和の鐘」モニュメントを設置し、多くの皆さまを館に迎え、博士のこころを感じていただきたいと考えています。 新記念館は、た.

『永井 隆 ―平和を祈り愛に生きた医師―』を出版することは、3年くらい前から、私の夢でした。 この本を出すのは、カンタンではありませんでした。. 三刀屋中校区内小・中学校では、7月の第1週を「永井隆平和週間」として、永井博士にかかわる平和学習を重点的に推進しています。 本校でもこの期間を「三刀屋中平和週間・永井隆博士のスピリッツにふれる!」として、医学者として研究に打ち込み、人を愛し、平和を愛し、そしてふるさとを愛した永井博士が遺した「はがき」を読んで感想を書く活動を実践しています。写真は、博士の「はがき」を読んで感想を書く生徒たちです。 加えて月に1回ですが「今月の隆先生」という時間に博士の生きざまや精神にふれ、自分の生き方を考える機会を設けており、郷土の偉人に学び平和と隣人を愛する人となって欲しいとの思いを込めています。. (12/2時点 - 商品価格ナビ)【製品詳細:書名カナ:アイ ノ ウタ ヘイワ ノ ウタ ナガイ タカシ ノ ショウガイ|著者名:李文熙、崔玉植|著者名カナ:イ,ムンヒ、チェ,オクシク|発行者:サンパウロ|発行者カナ:サンパウロ|ページ数:107p|サイズ:18】. サンパウロ: 永井隆全集永井隆全集 33 永井隆永井隆/著,永井徳三郎/監修.

永井博士の母校である飯石小学校は、永井博士のご縁で1989年に長崎市立山里小学校と姉妹校縁組を結びました。その後、飯石小が雲南市立三刀屋小学校と統廃合をしたため、三刀屋小と山里小は年に新たに姉妹校縁組を結びました。 三刀屋小の6年生は修学旅行で長崎に行き、山里小を訪れ、平和交流学習を行っています。写真は、永井博士の発案で建立された山里小学校にある「あの子らの碑」に黙とうを捧げているところです。. 中古本を買うならブックオフオンラインヤフオク!店。まとめ買いで更にお得に!! タイトル永井隆に愛と平和を考える. 『輝やく港』(未発表作) : 作品と原稿(2), 小西 哲郎 長崎外国語大学. 乙女峠(1951年4月) 10. 永井隆に愛と平和を考える (アルバ文庫)サンパウロ/編 サンパウロ 横から見た原爆投下作戦 秋吉美也子/著 元就出版社 夏の花・心願の国 (新潮文庫) 原民喜/著 新潮社 花びらのような命 松尾 あつゆき/〔著〕,竹村 あつお/編竜鳳書房.

【10点購入で全品5%off】。【中古】永井隆に愛と平和を考える サンパウロ編 / サンパウロ. 永井隆ー参考文献 A.『この子を残して』 永井隆 発行所:サンパウロ B.『長崎の鐘』 永井隆 発行所:サンパウロ C.日本テレビ 96年7月21日 知ってるつもり『長崎の鐘・51年目の真実』. 永井隆に愛と平和を考える : 1994年度課題図書感想文コンクール. 永井博士が愛した雲南市の魅力が詰まったお礼の品をご用意いたしました。 なかでも、ぶたの形をした最中「しっぽもひと役」は、「しっぽもひと役。何の役にもたっていないように見えるぶたのしっぽでも、本当はとても役にたっている、なくてはならないものなんだよ。」と言われた永井博士のエピソードからできた所縁の品です。 是非お召し上がりください!. 長崎の花 上・中・下(1950年 日刊東京タイムス誌上にて連載) 14. 『如己堂』で診察を受ける永井隆博士、「永井隆記念館」内の展示 永井隆博士は、1908年(明治41年)、島根県松江市に生まれた。長崎医科大(現・長崎大学医学部)を卒業後、放射線医学の治療と研究に従事、当時もっとも深刻な病気だった結核治療に励んだこともあって、慢性骨髄性白血病にかかった。「余命3年」と宣告されたのは、被爆の2か月前であった。38歳だった。 しかも、原爆投下の日、大学病院内で被爆し右側頭動脈切断の重傷を負った。最愛の妻の緑さんは自宅で焼死した。永井博士は、被爆直後の様子を「地獄だ、地獄だ。うめき声一つ立てるものもなく、まったくの死後の世界である」(『長崎の鐘』)と表現している。 永井博士は被爆直後から、重傷の体にもかかわらず救護・救援活動に当たった。その後、夫人の遺骨を拾って埋葬すると、8月12日から58日間、第11医療隊の隊長として長崎市光山町に救護所を作り、被爆者の治療を行った。この間、永井博士は一時危篤になるが奇跡的に回復している。 翌46年に長崎医大の教授に昇格したが、同年7月長崎駅で倒れ、以後病床に伏した。自宅の狭い布団の上に腹ばいになって、精力的な執筆活動を開始した。2年後に『如己堂』に移り住んだが、それは浦上の人々が焼け残った材木を集めて永井博士のために作った2畳1間の小さな家だった。.

永井隆に愛と平和を考える―1994年度課題図書感想文コンクール (アルバ文庫) サンパウロ. 永井隆博士の著書全17作品 『この子を残して』『花咲く丘』『平和塔』『生命の河』『原子雲の下に生きて』『長崎の鐘』『如己堂随筆』『長崎の花(上・中・下)』『原子野録音』『私たちは長崎にいた』『いとし子よ』『ロザリオの鎖』『亡びぬものを』『村医』『乙女峠』(永井隆全集Ⅰ. 永井隆に愛と平和を考える-1994年度課題図書感想文コンクール(アルバ文庫) 文庫の通販ならヨドバシカメラの公式サイト「ヨドバシ. 花咲く丘(1949年4月) 8. 愛の歌・平和の歌 : 永井隆の生涯 李文煕著 ; 崔玉植, 薄田昇訳 サンパウロ,. Pontaポイント使えます! | 永井隆に愛と平和を考える 1994年度課題図書感想文コンクール アルバ文庫 | サンパウロ | 発売国:日本 永井隆に愛と平和を考える - サンパウロ | 書籍 || HMV&BOOKS online 支払い方法、配送方法もいろいろ選べ、非常に便利です!.

平和塔 - 永井隆(医学) - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。 永井隆に愛と平和を考える - 1994年度課題図書感想文コンク-ル - サンパウロ - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. 平和の尊さを書き綴り、訴え続けた6年間 永井隆博士が後世に残したメッセージ: 永井隆博士のことを知るには、やはり著書を読むのが一番だ。医学と信仰における人類愛、探究心、また博士が見て感じた原爆落下直後の長崎の町と人々の様子。. 愛と平和を求めて:永井隆 1908年、島根県松江市にて、医師であった父の寛、母ツネの長男として誕生した永井隆。 高校以来の唯物論者でしたが、1931年、脳溢血による母の急逝により、霊魂の存在を信じるようになります。. 【中古】 永井隆に愛と平和を考える 1994年度課題図書感想文コンクール / サンパウロ / サンパウロ 文庫【メール便送料無料】【あす楽対応】 0. 雲南市三刀屋町は、永井隆博士が多感な少年時代を過ごした「生い立ちの地」です。 博士は地元の飯石小学校を卒業した後、旧制松江中学校、旧制松江高校から長崎医科大学へと進みました。 大学での放射線医学の研究による白血病に加え、原爆に遭遇、自らも重傷を負いながら被爆者の救護にあたりました。 その後、病床に伏しながら、「長崎の鐘」、「この子を残して」などの名作を著し1951年5月に43歳の若さでこの世を去りました。 原爆で亡くなった夫人のかわりに子どもたちとふれあう時間を大切にしたうえで、子どもが学校に行っている間や寝静まった時間を利用して著書の制作に取り組んだと言われています。 永井博士は亡くなる1年前から病床で「平和を」と書いた書を1000枚も書き残しています。 戦争体験者から直接の証言が聞けなくなる未来に向けて、永井博士が訴え続けた「平和を」の願いを次の世代に伝えていきたいと考えています。 ふるさと雲南市に新たな「永井隆記念館」を整備し、たくさんの人に博士のことを、その想いを知っていただきたいのです。ご協力をお願いします。. 「原爆資料館」内に展示されている永井博士の写真 『長崎の鐘』のタイトルは、永井博士が学生時代から聞いていた浦上カトリック教会の被爆したアンゼラスの鐘に由来する。2つの鐘うち1つは壊れず、45年12月24日に信徒ががれきの中から掘り起こした。その鐘を丸太棒で組んでつるし、クリスマス・イブのミサの知らせに鳴らした。永井博士は、犠牲者への鎮魂のその鐘の音を聞いて著書名を決めたという。 永井館長は、最近、「もし永井博士が生きていたら、東日本大震災後の原発事故についてどのように発言されるだろうか、とよく聞かれる」という。これに対し、永井館長は「(質問は)少し見当違いで、(永井博士は)事故以前に原子力の安全性や危険性を分かったうえで対処すべきものだと考えていた。だからパッとしたコメントは言わないのではないか」と答えた。 永井隆は1951年5月1日、長崎医大で死去した。43歳だった。死後解剖で、永井の脾臓は通常の35倍、肝臓は5倍に膨れ上がっていた。同月14日、浦上カトリック教会で「長崎市公葬」が行われ、市民2万人が告別式に参加し、別れを惜しんだ。長男・誠一氏の著書によると、その公葬にはシャンソン歌手で俳優の丸山臣吾(現・美輪明宏)の姿もあったという。. しかし、永井博士が46年8月に執筆した随筆『長崎の鐘』は、簡単に出版できなかった。医学面からの被爆の記録であったが、国内外に初めて発表される被爆の著書であったため、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の厳しい検閲が行われた。出版の許可まで2年余かかり、しかもGHQ側から条件が付けられた。 条件とは、日本軍が45年2月に起したマニラでの虐殺の記録集『マニラの悲劇』と合本にすることだった。それは、神父や軍人、市民などが虐殺について口述宣誓下ものをGHQ諜報課が編集したものだった。『長崎の鐘』が160ページ、『マニラの悲劇』が159ページという合本だったことから、検閲の厳しさを知ることができる。この経緯については子息の永井誠一氏(故人)が書かれた『永井隆』(サンパウロ)に詳しい。 こうして『長崎の鐘』は49年1月に出版されと、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。同年7月にはサトウハチロー作詞・古関裕而作曲の歌謡曲が発売されて大ヒット。歌った藤山は、翌年アコーディオンを抱えて如己堂に永井博士を見舞うとともに、51年1月3日に放送された「第1回NHK紅白歌合戦」の大トリで『長崎の鐘』を熱唱した。 また、50年には松竹から、大庭秀雄監督、脚本は新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子、主演は若原雅夫で月丘夢路、津島恵子らの共演で映画化された。原爆を扱った劇映画第1号だったことから、GHQ検閲もあり、被爆状況を真正面から取り上げる事が出来ず、原爆の惨禍より復興への願いが強調された。 また、英国では永井博士の生涯を題材にした映画『All That Remains: The Story of Takashi Nagai(残りしもの: 永井隆の物語)』が、年から4年近くにわたり撮影されており、近く一般公開される予定だという。.

See full list on nippon. 私たちが伝えていきたいのは永井博士のこころです。 平和を願い、人を愛するこころを育て、やさしく、夢のある世界を目指して。 雲南市のこの取り組みへのご支援をお願い申しあげます。 年の春には、生まれ変わった永井記念館で、皆さまとお会いできるのを楽しみにしております。. 1959年に再建された現在の浦上天主堂 永井博士は、もともとは出雲大社の信徒であり、キリスト教徒ではなかった。長崎医大に入学し、浦上天主堂から毎日鳴る“アンゼラスの鐘”を聞きながら、パスカルの『パンセ』に出合い、キリスト教にひかれていった。 34年、戦地・満州から帰還し洗礼を受けるとともに、同年8月に森山緑と結婚した。 妻・緑は、7代続いた隠れキリシタンの敬虔な信者の家系の出だった。永井博士は、豊臣期のキリシタン殉教者である「日本二十六聖人」の1人、パウロ三木に因んで、洗礼名をパウロとした。 永井館長によると、「人は、永井隆を“聖人”と呼んだりしたが、本人はそう言われることを望んではいなかった」という。若い世代には「永井隆の平和への想い、隣人愛による恒久平和への想いを理解して、これからの人生に反映してもらえばと思う」と述べた。 永井博士は、47年5月3日の「日本国憲法」の施行を歓迎し、「今度ほど本気で、皆が戦争を起こすまいと考え込んだことはなかった。これはまったく二発の原子爆弾のせいであった。憲法で戦争を放棄すると言い切ったのであるから、人々の心の中から戦争をすっかりなくしてしまわなければならぬ。」(『平和塔』)と書いている。. 長崎の鐘(1946年8月) 2. 「永井隆に愛と平和を考える」をテーマとする課題図書読書感想文コンクール応募作品集。中学・高校・大学生の心の感動と叫びが、永井隆への想い、平和の尊さ、戦争への新たな怒りとして脈々と伝わる。 編著:サンパウロ 判型:文庫判 ページ:277.

『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか』という本がある。 その本はまず、読者にこう語りかける。 もしも、目の前に「戦争」と「平和」と書かれたカードが並べられたとして、「どちらを選びますか?」と問われたら、きっと多くの人が「平和」のカードを選ぶのではないだろう. 永井隆に愛と平和を考える (アルバ文庫). 『♪なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る♪』-サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、藤山愛一郎が歌った歌謡曲『長崎の鐘』は、終戦直後の1949年に大ヒットした。長崎の原爆投下(1945年8月9日)から70年。当時を振り返る時、『長崎の鐘』など多くの著作を残した放射線専門医師・永井隆(たかし)博士のことを抜きには語れない。 『如己堂』近くの坂の歩道壁面に彫られた「長崎の鐘」の音符と歌詞) 自ら被爆しながら多数の被爆者を治療、救済した永井博士が残した足跡と著作は、人類の“負の遺産”である原爆投下の第1級の証言記録であると同時に、その生涯はキリスト教徒として平和を希求した人間愛に満ちたものであった。 長崎の象徴である「平和祈念像」近くの坂道の途中に、2畳1間の小さな木造の住居がある。白血病に倒れ、病に伏しながらも、実質4年半で17冊の著書を残したこの住まいを、永井博士は『如己堂(にょこどう)』と名付けた。「己の如く人を愛せよ」というキリストの言葉からとったもので、多数の死傷者を出した爆心地近くの浦上地区の人々の心を忘れず、自分もその愛に生きようという意味が込められている。 もう多くの日本人が忘れかけている永井隆博士の『如己堂』を訪ねるとともに、隣接する長崎市永井隆記念館の館長を務めているお孫さんの永井徳三郎氏(49)に話を聞いた。. See full list on furusato-tax. 永井夫妻は1男3女、長男・誠一(まこと)、長女・郁子(いくこ)、次女・茅乃(かやの)と三女・笹乃(ささの)の子供をもうけたが、長女と三女はいずれも夭折した。 長男・誠一は時事通信に入社(記者)し定年退職まで同社に勤務、退社後となる1998年(平成10年)5月から長崎市立永井隆記念館館長を務め、父の伝記『永井隆』も著したが、年4月4日に肺炎で亡くなった。 次女・茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。晩年には信者としてカトリック枚方教会の売店で受付をするかたわら、父のことに関する活動にも関わっていたが、年2月2日の永井隆生誕百周年前日に肝細胞がんで亡くなった。. 永井徳三郎氏 「長崎市立永井記念館」館長で、博士のお孫さんに当たる永井徳三郎氏によると、同記念館への年間の来訪者は約15万人だという。同館は、もともと永井博士が戦災孤児のために私財を投じて作った「うちらの本箱」という図書室が始まりだ。その後ブラジル在住邦人の寄付と市費で図書館に生まれ変わり、69年に現在の記念館に名称を変更、博士の遺品や写真を展示し、年に全面改築した。展示スペースはわずかだが、永井館長によると、「来館者の中には30分も、40分も何も言わずに見学されて帰られる方がいる」という。 永井博士のもとには非常に多くの人が見舞い訪問しているが、社会福祉と世界平和に一生をささげた三重苦の“奇跡の人”ヘレン・ケラー女史の訪問(48年10月8日)は突然だった。15分間の短い出会いだったが、永井博士は感涙した。そして、「手を握り合った!暖かい愛情が電流回路を閉じたときのように、瞬間に私の五体へ流れ込んだ」(『いとし子よ』)と書いている。 さらに、49年5月27日には、長崎の被爆地を慰問された昭和天皇に謁見。その3日後、浦上公民館に運ばれてきたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使であるギルロイ枢機卿の見舞いを受けた。その年末には、「長崎市名誉市民」の第1号を受けている。. 1994年度課題図書感想文コンクール アルバ文庫 サンパウロ 日本キリスト教書販売 サンパウロ. 1950年(昭和25年)に永井が私財で作った子供のための図書室『うちらの本箱』を前身とした長崎市立永井図書館が1952年(昭和27年)に完成し、1969年には市立永井隆記念館と改称。1970年10月には永井が幼少時代を過ごした島根県三刀屋町(雲南市)にも永井隆記念館が開館し、2年後の1972年10月20日両記念館は姉妹館となった。 1991年(平成3年)には旧三刀屋町で「永井隆平和賞」が創設され、「平和を願い、人々を愛する心」を育て、やさしく夢のある21世紀の世界をつくるために、全国から「愛」と「平和」をテーマにした作文・小論文を毎年募集している。 長崎市では1995年(平成7年)に被曝者医療の向上・発展、被爆者の福祉の向上を通じ世界平和に貢献し、将来にわたる活躍が期待される国内外の個人または団体を隔年毎に表彰する目的で永井隆 平和記念・長崎賞が制定された。そして年(平成15年)4月1日、永井の精神の継承及び国内外のヒバクシャ(被ばく者)を対象とした医療を提供する拠点として、永井隆記念国際ヒバクシャ医療センターが長崎大学病院に設立された。 当時、長崎大学大学院の山下俊一教授はこれら2つについて、「私自身は同窓の一後輩に過ぎませんが、長崎大学付属病院に永井隆記念国際ヒバクシャセンターを創設し、さらに長崎ヒバクシャ医療国際協力会の国際活動の一環として永井隆記念長崎平和賞(原文ママ)を設けることで、故久松シソノ看護部長の思いをはじめ博士を知る関係者のご遺志を継いで長く博士を顕彰したいと努力しています」と述べている。 同年には永井の遺志を継承する目的で特定非営利活動法人・長崎如己の会も設立された。 大韓民国でも年 (平成16年)に大邱大司教区の李文煕(イ・ムニ)大司教(当時)が韓国如己の会を設立した。年(平成22年)に「如己愛人賞」を創設し、永井に関する本の感想文を募集している。.

長崎市永井隆記念館資料; 永井隆『この子を残して』(講談社→七つ森書館) 片岡弥吉 『永井隆の生涯』1961魚; 片岡弥吉『永井隆の生涯』サンパウロ、1961年4月25日。isbn。 長崎国際文化会館『碑は訴える 被爆40周年記念』長崎市、1986年3月、176頁。. 永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。 1. 原子野録音(1947年~1951年 「聖母の騎士」誌上にて連載) 3. 生命の河(1948年8月) 7. Amazonでサンパウロ, サンパウロの永井隆に愛と平和を考える―1994年度課題図書感想文コンクール (アルバ文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。サンパウロ, サンパウロ作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 『輝やく港』(未発表作) : 作品と原稿(1), 小西 哲郎 長崎外国語大学 15. 日本農業新聞は、国内唯一の日刊農業専門紙です。農政や農家の営農に役立つ技術情報、流通・市況情報に加え、消費者の関心も高い食の安全.

いとし子よ(1949年10月) 9. 【最短で翌日お届け。通常24時間以内出荷】。【中古】 永井隆に愛と平和を考える 1994年度課題図書感想文コンクール / サンパウロ / サンパウロ 文庫【ネコポス発送】. 愛の歌・平和の歌 : 永井隆の生涯 李文煕 著,崔玉植, 薄田昇 訳. See full list on weblio. サンパウロ編 (アルバ文庫) サンパウロ, 1995. 亡びぬものを(1948年1月) 4. BOOKOFF Online ヤフー店の永井隆に愛と平和を考える アルバ文庫/サンパウロ(編者):ならYahoo!

如己堂随筆(1957年12月) 11. 平和塔(1979年11月) 13. 雲南市の教育基本目標として、「ふるさとを愛し 心豊かでたくましく 未来を切り拓く 雲南市の人づくり」を掲げ、目指す人物像の一人として、永井隆博士を挙げています。 これは、永井博士が生きる指針とされた「己の如く人を愛せよ(如己愛人)」の精神を多くの子どもたちに身に付けて欲しいからに他なりません。 「如己愛人」の精神を身に付けた人づくりとして、市内の小学校及び中学校での平和作文や戦争体験を聞くといった学習機会を設けています。 そして、毎年「愛」と「平和」をテーマとした作文を全国から募集し、「島根県雲南市 永井隆平和賞」を開催しています。.

永井隆全集 第一巻 「己のごとく隣人を愛せよ」人間性にあふれる愛と真実を追究した著作の集大成。自らも白血病にかかり、闘病生活を余儀なくされた彼の平和への願いがここによみがえります。永井隆年譜、爆心地市街図も収録。 目次 この子を残して.

永井隆に愛と平和を考える - サンパウロ

email: xigijes@gmail.com - phone:(445) 451-9320 x 8557

ベランダ&バルコニーDIY改装術 - ドゥーパ!編集部 - レーシングカート完全ガイド

-> れいわ民間防衛(仮) - 上念司
-> 日本古代中世の政治と文化 - 佐伯有清

永井隆に愛と平和を考える - サンパウロ - 認識の分析 エルンスト


Sitemap 1

庭と建築の煎茶文化 - 尼崎博正 - COLLECTION BUTTERFLY BENTO